#1スモールトーク / 虫歯と怠惰をこじらせて

 

スモールトーク#1
虫歯と怠惰をこじらせて

 

度を越した怠惰は性格というより病気の一種だと思う。わたしは怠惰がもとで虫歯をこじらせ、左の犬歯を危うく抜歯しかけたことがある。子供の頃からとにかく歯磨きが雑だったし、そもそも磨き忘れることも多かった。せっかく歯を磨いても寝る前に自室でお菓子を食べながら本を読みそのまま寝落ちしてしまうことも珍しくなかったので虫歯と詰め物が歳と共に増え荒んだ口内環境の治安が日を追うごとに悪くなっていくのも当然の成り行きだった。

ついに前歯に虫歯ができていた時にはさすがに驚いた。ある日ふと鏡で自分の笑顔をよく見てみると前歯の根本に黒く穴が空いていたのだ。前歯に虫歯ができることにも、こんなに大きくなるまで気づかなかった自分にも驚いた。ともあれ歯医者にかからなければならなくなった。しかし都心のいかにも最先端っぽい小洒落た歯科医院で読者モデルみたいな美人歯科助手にこの荒れ果てた不毛の地を披露する勇気がなく、結局は近所の年老いた歯科医師が惰性で続けていそうな歯科医院に電話で予約を入れた。そういうところばかり自意識過剰でこまる。

年老いた歯科医師が惰性で続けていそうな歯科医院では治療中、中島みゆきの『空と君のあいだに』のオルゴールバージョンが流れていた。壮大な曲がオルゴールバージョンで流れているといつも笑いが込み上げてくる。込み上げる笑いに腹筋を震わせている間に治療はあっさりと終わったけれど、結果としてこの時虫歯を取り残され、その上から被せ物をしたことが原因で数年後に神経が完全に腐り、別の歯科医院でもう抜歯するしかないと宣告されることになった。二十四歳の秋だった。

歯を抜くとなるとこれはもうちょとした事件だ。今までのちょっと削ったり被せたりというのとはわけが違う。

まさか自分が二十代で歯を抜くことになるなんて考えもしなかったので軽いパニックに陥った。お金はかかるけれど、ブリッジよりインプラントにした方がいいという医師の説明もほとんど耳に入らなかった。歯を抜くということで今後の生活や人生にどんな不便や変化が付きまとうのかとか、しばらくの間はそういうことを考えると混乱して涙が出た。なんとか抜歯しなくて済む方法はないか尋ねたが、医師は腕組みをして電子カルテを眺めると眉間に深い皺を作ってやはりここまで悪いと抜歯しかない、と断言した。あとで医師に渡されたインプラントの資料にきちんと目を通し一本あたりざっくり三十万はかかるという見積もりに愕然とした。そのせいであの頃は一時的にかなり情緒不安定だったと思う。抜かなければならない歯が前歯であることも少なからず関係していたかもしれない。

しかし結局のところ同僚の強いすすめで根幹治療に強い歯科医院のセカンドオピニオンを受け、ありがたいことに神経を抜くだけで、なんとか抜歯までは免れることとなった。審美歯科はインプラントですぐ金儲けしようとするんだから油断しちゃだめよ、と同僚は言った。

このことをきっかけに、わたしは心を入れ替えて数ヶ月間歯医者に通い詰め、ひどい虫歯から小さな虫歯まで全て治療した。

治療を終えた日、担当医師に、虫歯も立派な病気だということを忘れぬように、と言われた。「神経を抜いた歯はそうでない歯に比べて寿命が確実に短くなります。削った歯もそうです。歯は完治したように見えても本当に全てが元通りになることはありません。治療の度に弱ってあとはもう消耗していくだけなんです。それは毎日の歯磨きだって同じことです。一日くらいまあいいやと思って歯磨きせず寝たって、もちろん次の日に何か大きな変化があるわけじゃありませんけど、それは目に見えないだけで確実に何倍もの代償を払わされているんです。そしてその代償を次の日に補填することは基本的に不可能です。それを忘れないでくださいね」

歯を通してわたしの人生そのものを見透かしているかのような、どっしりと胸に重くのしかかる総括だった。あるいは本当に歯科医師であればある程度、歯から患者の性格や人生が分かるものなのかもしれない。帰り道、糸ようじを買い込み、歯ブラシも矮小歯用のサイズのものを新調した。

それからも、ことあるごとにわたしは医師の総括を思い出す。日焼け止めを塗るか否か迷った時、自炊が面倒でインスタント食品を手に取った時、靴下を入れる洗濯ネットが見つからない時、ベットに入ってからストレッチをしていないことに気がついた時。

それは目に見えないだけで何倍もの代償を払わされているんですからね。

怠惰は治せる病気だと、いつか胸を張って言える日が来るだろうか。