#1スモールトーク / ひとりカレー論争

わたしがカレーについてあれこれ面倒なことを考えるようになった原因は、どう考えてもあの鉛筆カレーにあった。学生の頃、勤め始めたばかりのバイト先の社員に「カレーは好きか」と訊かれ何の躊躇いもなく好きだと返答したことがことの始まりだった。「じゃあランチは行きつけのカレー屋に連れて行ってやるよ」とその社員は言った。

カレーが好きというのは嘘じゃなかった。カレーは小さい頃から好きだ。カレーなんて嫌いな人を探す方が難しい食べ物だろう。実際わたしは月に何度か大した感慨もなくありふれた一般的なカレーを食べていた。でもただそれだけのことだ。ごく普通の人が平均的にカレーを好きなように、わたしもカレーが好きだった。そこにはなんのこだわりもなければ、強い思い入れもなかった。わたしはそのことをきちんと伝えておくべきだったのだ。だけど高校を卒業して間もないわたしにとってはバイト先の人とお昼ご飯に行くこと自体が新鮮な出来事であったから少なからず浮かれてもいたし、働き始めたばかりでそんなことを気さくに話せるような環境でもなかった。だから思い返してみてもあれはやっぱり防ぎようのない事故みたいなものだったんだと思う。

お店に入った瞬間、わたしはすぐに何か取り返しのつかない間違いをしたことに気づいた。浮かれた気持ちは安治川に浮かんだラバーダックのようにペシャンコにしぼんだ。店に充満する匂いが私の知っているカレーの匂いと絶対的に何か違う。これはカレーじゃないと鼻腔が脳に猛抗議していた。メニューを見てもピンとこない。好みとかある?と聞かれバーモントカレーの中辛…という言葉か喉もとまで出かかったけれど、その言葉だけは今絶対に言ってはいけないような気がして「一番ベーシックなやつを」とだけ伝え注文は任せた。

銀色の丸いトレイに、同じく銀色の器が三つとナン。器にはそれぞれカレーと、野菜と、黄色い何かが入っていた。白米がない。ナンをちぎって控えめにカレーをつけて口に運ぶと、強烈な匂いが脳天を貫くように広がった。鉛筆の芯だった。どう考えても鉛筆の芯を三日三晩煮詰めた匂いだった。本気で図られたと思った。だけど目の前では同じ匂いのするものを本当に美味しそうに食べている人がいた。美味しいのか、本気でこれが。

決して本場のカレーを否定したり貶めたりしたいわけじゃない。ただ『それ』が私の知っているカレーとあまりにもかけ離れ過ぎていた。カレーの概念を根底からひっくり返す、なんて生易しい表現ではとても足りない、ほとんど粉々に砕き割るような暴力的な味わいだった。

「ここまでちゃんとしたカレーはこの辺じゃこの店くらいでしか食べられないんだよ」とどこか自慢げな社員の手前まずいとは言えなかった。というか働き始めたばかりの職場の上司の機嫌を万が一にも損ねてしまうのが怖かった。少量のカレーをちびちびつけながら食べたせいで先にナンがなくなった。社員が気を利かせすかさず代わりのナンを注文してくれた時には本気で嫌がらせなんじゃないかと思った。これは新しく入ったスタッフに対する洗礼のようなものでそのうちドッキリ企画みたいに『洗礼』とかかれた板を持って誰か出てくるんじゃないかと期待した。もちろんそんなことは起きなかった。わたしはひたすらカサを減らすことだけに集中し黙々とカレーを口に運び、咀嚼の合間に気づかれないよう口呼吸をした。鼻呼吸をすることはどうしてもできなかった。

その経験を経て、私は社会におけるカレーという食べ物の広義性を学んだ。カレーと一口に言ってもその風味には終わりの見えない谷底のような奥深さがあるのであって、バーモントカレー中辛がスタンダードの私が軽はずみに『好き』などと口走ってはいけない分野の食べ物だったのだ。私の今まで食べてきたカレーはカレー界のほんの末端に過ぎなかった。そもそも私が今まで食べていたのは本当にカレーだったのか。そこからもう疑わしい。

もしあの鉛筆カレーが本物のカレーなのだとすれば、私が今まで食べていたのはかりそめカレー。カレーとも呼べないカレー風ライスだったのかも知れない。私は自分の無学さに打ちのめされ、それからはカレーが好きかと問われても、そうですねえ家庭的な固形ルーのやつならまあぼちぼち、とかそんな歯切れの悪い返しをするようになった。

自分からわざわざカレーが好きか尋ねてくる人は多くの場合やはり本格派のカレー好きで、そういう人に例の返しをすると案の定『あんなのはカレーと呼べない。強いていうならカレー風煮込みだ』みたいなことを斜め上から言われるか『一度ハマると家庭の味には戻れないし、スパイスを揃えたりするのにもそれなりにお金がかかるから案外そのほうがいいのかもね。あれはあれで美味しいわけだし』と家庭のカレーにそれなりに理解を示しつつもそこにしっかり本格派としてのプライドが添えられて丁重に返却されるかだった。リアクションやニュアンスに程度の差こそあれ、本格派のカレー好きの考え方の根底にはしっかりと『家庭のあれは正道ではない』というスタンスが根付いているようだった。

わたしは世の中のことを全く知らなかった。そのことが恥ずかしかったし、周りにそのことがバレてしまうのを何より恐れていた。わたしはナイーブな芸大生だった。

しかしナイーブな芸大生時代を終えしばらく時間が経った後で、ある時なぜか違和感がふつふつと湧いてきた。何がきっかけかは思い出せないけれど、わたしはあの鉛筆カレーのことを考えていた。

確かに私があの日食べたカレーは本場のカレーだったかも知れない。しかし本場以外の国でまで本場の味を『正道』とするのはどうなのだろう。だってあの本場カレーを美味しそうに食べていた社員だって、幼い頃はきっとごろごろ野菜と固形ルーを煮溶かしたお馴染みのカレーを食べて育ったはず。いやもしかすると彼の家庭ではあの本格派カレーがスタンダードだったのかも知れないしそれは知るよしもないけど、だとしても全国的に見ればやっぱり固形ルーを溶かした平凡なあのカレーを食べて育った人の方が圧倒的に多いでしょうどう考えたって。私たちを育ててくれたのはあのごろごろ野菜の固形ルーのカレーであって、多くのカレー好きがカレー好きに至るまでのルーツでもあるはず。であるならば煮込みだとかにわかだとか言って邪道扱いするのは恩を仇で返すようなものじゃないのか。わたしはその違和感をそれから数年間温め続けた。そしてCoCo壱の前を通る時や、スーパーでスパイスの瓶が並ぶ棚の前を通り過ぎる時など折に触れて思い出していた。

そんな煮込みに煮込んだ内なる論争を、先日会社の人に話した。その人はわたしの知る限り誰よりも忖度のないものの考え方をする人だったし、実のない話にこそ不毛な熱意を燃やしてくれる人だったからちょっと意見を聞いてみたくなったのだ。

その人は一通りわたしの意見を聞いた上でしばらく考え込んだ。そして「でも、やっぱりお寿司が食べたいと思って寿司屋に行って最初にカリフォルニアロールが出てきたらなんか違うよね」と言った。

「わたしはカリフォルニアロールは嫌いじゃないしむしろ好きだけど、カリフォルニアロールはカリフォルニアロールであって、寿司とはまた別の属性なんだよね。でも海外にはカリフォルニアロールこそが寿司だ!って人もいるわけで、でもわたしからすればそんなもん寿司じゃねえよってなるわけで、だからこの話って結局、本場以外は邪道ってことにしないと収集つかないんだよね。でもそもそも正道とか邪道って決める必要あるのかって話で固形ルーのカレーって一括りにしてもその中で挽肉派、豚こま派、鶏肉派とか家庭それぞれに流派があってその中でさらに隠し味ははちみつ派とかチョコ派とかまた分化していくわけだからそういう意味では邪道って一括りにすることもできないしもうキリないんだよ。だからもう、一人一人の中に自分だけの正道カレーがあるってことでいいじゃん」と締めくくった。

全くその通りだと思った。わたしは何を長いことムキになっていたのだろう。

思い返してみれば、そもそもこの論争ははじめから代理戦争みたいなものだったのだ。人に話すことによってわたしは初めてそのことに気がついた。たぶんあの日、本格カレーによって傷つけられたと思っていたのは家庭カレーの威厳などではなくわたしのプライドだったのだ。そしてわたしのナイーブなプライドを傷つけたのもまた本格派カレーではなく本場という正義を笠に着た向こう側の人たちのプライドだったのだ。

いかなるカレーにも罪はない。悪いのはいつだって他者に対する無理解である。多様性を認めなければ結局は自分に跳ね返って来るのだ。ラブ・アンド・ピース。

それに最近では本格カレーと家庭カレーをいい感じに掛け合わせたような食べやすい中間カレーも増えたりしてもう本格なのか!そうでないのか!みたいな二極の時代はとっくに終わったように思う。日乃屋カレーのも中村屋のもえいこく屋のも全部カレー。わたしはsoracafeのカレーが一番好きだ。それがたとえカレーの深い深い谷の入り口的カレーでしかないとしても、これからは胸を張ってカレーが好きだと言おうと思う。わたしはカレーが大好きです。