#4スモールトーク / 敗北の着心地

偏愛するバンドやブランドがない人間にとって、Tシャツ選びというのはかなり骨の折れる作業だと思う。自意識に足を絡め取られ、価値観を見失い、思春期のように自分という人間が分からなくなる。もちろんユニクロやGUで売っているような無地の下着としてのそれはいくつか持っているけれど、それはそれとして、ここで言うTシャツとはいわゆる「主役としてのTシャツ」のことです。

大学生の頃、世の中に空前のシュプリームブームが到来し、赤いボックスロゴに『supreme』と白抜き文字で記された例のあのTシャツを身につけた人が名古屋の町に溢れた。シュプリームはこれまでも人気ブランドであったわけだけれど、その頃により一般に広く知れ渡ったというかよりパブリックなブランドになったように思う。そのせいで、一部のディープなシュプリームファンが『逆にもうシュプは着れない』『今あのボックスロゴのTシャツを買うのは逆にダサい』などと言っていたのを覚えている。これは何もシュプリームに限った話ではなく当時はミルクフェドとかステューシーとかブランドもののロゴTシャツ+ややタイトな黒パンツっていうコーディネイトが若者たちのスタンダードになっていて、このTシャツはダサいのダサくないのという議論がそこらじゅうで起きていたような記憶がある。あくまでもそういうおしゃれ議論の外野にいた者の目から見たおしゃれ界隈の話だけれど。

何しろその頃私にはとにかくお金がなく、古着屋で防虫剤臭いワンピースばかり漁っていたし、夫は夫で地元の量販店で購入した中学生が着ていそうな『NEWSTART』と胸元に大きくプリントされた激安Tシャツを身につけ「逆にどこに売ってるの?」とバイト先でいじられたりしていたくらいだから、そういったトレンディな話題とは無縁であり、Tシャツに三千円以上出すこと自体がそもそも理解できず、ふうん、Tシャツに一万円とか二万円出す人もこの世の中にはいるんだね、くらいのスタンスではすに見るとまでは言わないまでもどこか遠い国の宗教の話みたいに感じていた。実際、その頃の私にとってそれは理屈はわかるけど共感はできない強い信仰心の話みたいだった。本当のところ、少しはすに見ていた節もあったかもしれない。

しかし時は流れて大人になり、ちょっと生活に余裕ができると本当に現金なもので気の利いた「勝負Tシャツ」的なものが欲しくなるものなんですね。なんかさらっと一枚着ただけでキマるような、気張った感じはしないまでも周りの人に「お、センスあるじゃん」と一目置かれるようなそんなTシャツが。

この際ちょっとくらい予算オーバーしてもとびきりの一張羅を買おうじゃないかと意気込みをたぎらせ雑誌をめくり、街を練り歩いた。しかしいくら探せど「欲しいTシャツ」はいっこうに見つからなかった。イメージするTシャツが売っていないというのではなく、そもそも自分がどんなTシャツを欲しているのかが見えてこないのだ。

もちろん素敵なTシャツはたくさんあった。スタイリッシュなフォントがあしらわれたストリート風のものや近代アート的なグラフィックがプリントされたアーバンテイストなものなど手に取るだけでおしゃれな気分に浸ることができた。だけど、それらのTシャツの値段が正当なものなのか、本当にかっこいいのか、ということが実感としてきちんと掴めない。なんかいい感じの店に置いてあって、いい感じのお兄さんやお姉さんが勧めてくるから素敵に見えているだけなのではあるまいか、と思えてならない。

もちろんそのブランドないし、デザイナーにリスペクトがある人にとってそれは妥当な値段なのだと思うし、洗練されたデザインなのだと思う。でも私はそのブランドのことも、デザイナーのこともよく知らない。つまり自分は値段が高く世間的評価が高いからと言うだけの理由で、よく知りもしないブランドのよく知りもしないデザイナーがデザインしたこのTシャツをかっこいい素敵なTシャツだと思い込んでいるだけなのではあるまいか、という自分に対する疑念がどうしても拭えないのだ。

もし全く同じデザインのTシャツが700円で激安量販店に売っていたとして果たして自分は同じ感想を持っただろうか?一度そう思い始めてしまうともうどのTシャツを見ても同じで、自分自身の感性が全く信じられない。

この葛藤は、Tシャツという衣類特有のものだと思う。例えばこれがワンピースなら、そのフォルムや素材などに値段の理由を見出すことができる。なるほどこの手触り、この完璧なパフスリーブにはこのくらいの値がついて然るべきであるなと納得することができる。

だけどTシャツとなると話は別だ。もちろんTシャツにだって素材の良し悪しはあるだろうしフォルムだって多少こだわられているのかもしれない。だけどどうしたってそこに700円と2万円の差を生むほどの違いは感じられない。

あるいは私にその違いを感じるだけの能力がないだけなのかもしれない。だけどそれなら尚更私には、二万円のTシャツを買うべき理由がないということになる。素材的な差異がわからないとなると、デザインにそれだけの価値を見出さなければならないことになるわけだけれど、そのデザインをかっこいいと捉えた感性自体が値段によって裏打ちされたものであるならば、それだってもはや動機にはなり得ない。

あるいは私が、名前の通ったブランドの高価なTシャツを身につけたいだけなのだと認めればいいだけなのかもしれない。実際そういう気持ちがないわけでもない。私は「気張った感じがしないまでも周りの人にセンスがあると一目置かれるようなTシャツ」が欲しかったのだから。

だけど、だからと言って全ての基準を他人の目に預けてしまうのはあまりにも味気なくうすら寒い。確かに私が服を選ぶ時にはいつだって他人からどういう人に見られるか、という視点が存在している。それは認める。だけどそこに自分の確固たるこだわりがほんのひと匙でも入っているのといないのとでは大違いなのだ。お洒落とはいつだってそういう他者と自我の軋轢の中にあるものではないですか!?

そんなことは考えたこともない、という人がもしいるのなら、おめかしに対するその無邪気な心をどうか永遠に失わないで欲しい。私はあなたのような人でありたかった。

それからしばらくは、何人かの友人知人に勝負Tシャツを持っているか、そして持ってるのならどんなところが気に入っているかという旨をたずねまわった。

好きなブランドの限定商品で行列に並んで手に入れたから思い入れが違うだとか、好きなダンサーがデザインしたものだから着ているだけでその人に対する愛を世間に表明できるし同志も見つけやすいだとか、好きなバンドのライブTシャツだからあの日の汗と涙が染み付いてるだとか、古着屋で一目惚れして買って以来いざという時に身につけると根拠のない自信と勇気が湧いてくるから手放せないだとかそんな具合に、みんなそれぞれ自分なりのポリシーやTシャツに対する愛情を持っていて羨ましかった。

私は結局まともなTシャツを一枚も手に入れられないまま夏を迎えた。しかしいくら探せど特別な愛着を抱けそうなTシャツは見つからず、自分なりのTシャツに対する美学みたいなものも見出せなかった。そしてついに私はTシャツ探しを放棄した。

ある休日、ラシックの中の適当なお店に入り店員さんに「二十代の男性が着ていても不自然じゃないこなれ感のある一万円以下のTシャツをください」とお願いし見繕ってもらったものをそのまま夫のプレゼントとして購入した。『フルーツオブザルーム』というブランドのTシャツで、確かにこなれ感があった。だけどお洒落な店員さんがすすめてくれたからそう感じるだけなのではないかと言われれば、やっぱりそんな気もした。

ところで「こなれ感」という表現は雑誌なんかではよく見かけるけれど、実際口に出すとえも言われぬ恥ずかしさに襲われるもワードである。店員さんに、こなれ感ですね、了解です~と復唱された時にはいたたまれなさでほとんど憤死しかけた。

逃げるようにラシックを出た帰り道、私はセカンドストリートに入り自分用にナイキのTシャツを買った。白地の胸元に大きく『NIKE』とプリントされただけのシンプルなTシャツだ。長い間ずっとバスケットボールをやっていたので、スポーツメーカーのロゴには無条件の安心感を覚える。ナイキはいつだって私の味方だ。着心地も悪くない。

だけど鏡に映る『NIKE』の文字は心なしか色褪せ、Tシャツ全体が八百屋の店先の使い古されたのぼりのようにくたびれて見えた。結局、私がその夏手に入れたTシャツは、ナイキのTシャツ一枚きりだった。

誰か私に正しいTシャツの選び方を教えてください。