#6スモールトーク / 心ってなまもの

もうあなたと同じ空気を吸いたくない、と昔恋人との関係がこじれにこじれて口にしたことがある。それは、他愛のない言い合いやすれ違いが重なったことで生じる倦怠期なんかとは全く別種の、二人にとって決定的で取り返しのつかないほとんど惨劇と呼ぶべき不毛の日々での出来事だった。一方的な攻撃だったから弾圧という方が正しいかもしれない。

その惨劇は数週間に及び、その間わたしは数限りない暴言を恋人に投げつけ続けていた。ことの発端は恋人の嘘にあり、だからこそわたしは堂々と被害者意識を持つことができたし、恋人は加害者としてサンドバックに徹していた。人間関係の破綻したすごく不健全な構図だったと今なら分かる。だけど当時のわたしはそのことに気づいていなくて、自分には、相手を攻撃する権利があり、相手にはその攻撃を甘んじて受け入れる義務があると勘違いしていた。恋人は、厳しい寒さにじっと耐え忍ぶ北国の農民のように辛抱強くわたしの攻撃を受け止め続けた。

虚言癖なの?とか頭大丈夫?といったスタンダードな煽り文句に始まり、詐欺師、クズ、狂ってる、サイコパス、思考回路が絶望的、話にならない、エトセトラ。

それほど気の強い人じゃないことはわかっていた。だけどいつの間にわたしはその立場に慣れてしまって、恋人を責めることが癖のようになっていた。怒っていたのは事実だけれど、その一方で人を断罪することをある意味では楽しんでいたのかもしれない。

その日わたしは、わたしの機嫌を取ろうとするような恋人の言動にひどく苛立っていた。それでそんなに深い考えもなしに、もうあなたと同じ空気を吸いたくない、と言った。具体的にどういう流れで口にしたのかはもうよく覚えていない。だけどその言葉を聞いた途端に、それまで受け流すばかりだった恋人の顔からふっと力が抜けて糸が切れたような、諦めたような顔になったことを覚えている。

次の日、それまで「別れない」の一点張りだった恋人から、無理につきあわせて申し訳なかった、と言う旨のメールが届いた。そして私たちは別れた。

同じ空気を吸いたくない、という宣言がそれほど人を傷つける言葉だとわたしはそれまで思ってもみなかった。軽い愚痴で使われたり、バラエティー番組で冗談っぽく言う人も多かったから、悪口の中では比較的攻撃力の低い部類のワードだと思っていた。もちろん恋人の中で積もりに積もった感情が積載量を超えたというだけのことなのだろうけれど、やっぱり引き金はあの一言だったと思う。

それから何年も経ち、コロナ禍になった。密な空間で感染するからマスクを着用せよと言う永田町からのお達しがあった時、変な話だけれどわたしはその恋人のことを思い出した。人は本当に他人の吐いた息を吸っていて、同じ空気を吸っていたんだということを実感として知り、そのことを拒絶された恋人のショックをなんとなく理解できたような気がした。

わたしにとっては漠然とした軽口のような悪口でも、彼にはもっと現実的なイメージとして刺さっていたのかもしれない、という可能性についてわたしはその時はじめて思い至った。向かい合っていれば同じ空気を吸わないと言うのは無理な話で、同じ空気を吸いたくないと言うのは、恋人にとっておそらくはこれ以上ないほどの存在否定に聞こえていたのだと思う。恋人はかなり年上で歯槽膿漏になりかけていることを気に病んでいたから、あるいは口臭に関する指摘のようにも聞こえていたのかもしれない。

心ってなまものだ。保存環境が悪ければ腐るし傷む。鮮度が落ちれば死に絶える。そして心の急所は分かりにくい。それによくよく考えてみれば「同じ空気を吸いたくない」と言うのは悪口の中でもなかなかタチの悪い部類に入る。最近になってそう思うようになった。

個人的に、悪口は大きく三つの分類に分けられると思う。

①内面否定系
②外見否定系
③無根拠系

①の内面否定は、悪口入門とも言えるバカ、性格ブス、ノータリン、と言ったワードをはじめとした対象の内面や対象に付随する見えない要素(国籍、学歴、所得など)を攻撃するワードが属し②の外見否定系には、デブ、ブスなど相手の外見を攻撃するワードが属する。いずれも攻撃力を十分に持つ鋭く尖った悪口ではあるけれど、中でもタチが悪いのが③の無根拠系である。ここには「同じ空気を吸いたくない」をはじめ「生理的に受け付けない」「胡散臭い」「DVしそう」と言った漠然としたイメージを相手にぶつけるタイプの悪口が属する。前者2つが、明確な否定要因を提示している上での攻撃であるのに対し③の無根拠系悪口は、攻撃を受けた本人が具体的に自分の何を否定されたのかが理解できない上に無根拠である場合がほとんどであるからタチが悪い。前者二つはたとえ事実であったとしても、事実である分まだ改善策を講じる余地もあるが、要因不明の根拠なき否定は改善することすらできない。そういう意味でも無根拠系攻撃はすごく悪質だった。

わたしはそのことにずっと気づいていなかった。何より恋人は、思い出す限りたったの一度だって悪口でわたしを傷つけたことはなかった。わたしは何年も経ってからようやくそのことに気づいた。ふがいないことばかりの人生で情けなくなる。